「統合は、起きるもの」シリーズ③Robert Kegan編

心理学における「自己統合」とは、自分の中のさまざまな要素が、矛盾を含んだままでも全体でひとつとなって機能すること。

生きやすさや自分軸にもつながるとされるプロセスです。 

自己統合が進むと、深い自己一致の感覚が生まれ、それは「自分らしい生き方」の根っことなります。 

 「統合」と聞くと、それに向けて“何かをすること”が思い浮かぶかもしれません。 しかし実際のところは、なにかしようとするその“力みを抜くこと”から始まるのは、あまり知られていません。 


本記事では、さまざま解釈が生まれやすい「統合」について、私自身の経験と、識者の言葉を借りながら紐解いていく、シリーズ第3弾をお届けします。



統合とは「扱えること」ではなく、「立つ場所が変わること」
— Robert Kegan に見る主体の転換 —


ここまでで、統合について二つの視点を見てきました。

ひとつは、対立をなくすのではなく、 対立したまま含まれるということ。 


もうひとつは、 それが「含もうとすること」ではなく、 位置が変わることで起きるということ。 



ではその「位置」とは、何でしょうか。 


私たちは普段、 思考や感情を「自分そのもの」として生きています。 

不安があれば、不安そのものになり、怒りがあれば、怒りの中に入り込み、考えていることが、そのまま現実になります。 


この状態では、それを“見る”ことはできません。 

なぜなら、私自身がそれそのものになってしまうから。


怒りがわたしで、不安がわたし。

これは思考や感情が主体となっている状態で、多くの人はこの感覚に居心地の悪さを感じ、そこからあなんとか抜け出そうとします。


Robert Kegan は、人の発達をこう表現しました。


 “What was subject becomes object.” 

(これまで主体だったものが、対象になる) 

これまで“自分そのもの”だったものが、 “自分が見ることのできるもの”に変わる。 


感情に飲まれていた状態から、 感情を認識できる状態へ。 

思考に巻き込まれていた状態から、 思考を扱える状態へ。 


ここに至ると、私たちは大きな安定を得ます。 

いわゆるメタ認知や観察と呼ばれる領域です。 


ただ、この地点にも、ひとつの限界があります。 

「観察している自分」もまた、新たな主体として固定されることです。 


ある部分では、感情には巻き込まれない。 

思考にも距離を取れる。 

全体を俯瞰できる。 

それは確かに機能的で、成熟した状態です。 


けれど同時に、それらを観察し監督し続ける自我がなくなることはありません。


ここで重要になってくるのが、 身体と神経系の状態です。 

私たちの“位置”は、 思考だけで決まっているわけではありません。 


身体がどのような状態にあるか。 

神経系が安全を感じているかどうか。 

それによって、 どこに立ちやすいかが大きく変わります。 


たとえば、幼少期に安心できる環境が少なかった場合。

身体そのものが「警戒」を基準にした状態で固定されていることがあります。 


このとき、どれだけ思考を整えても、どれだけ感情を手放そうとしても、身体は常に「何かに備える」状態にあります。 


すると、観察しているつもりでも、どこかで監視している自分が残り続ける。 

安全を確保しようとする働きが、 主体の位置を固定し続けるのです。 


これは意志の問題ではありません。 

理解の問題でもありません。 

その位置に立つことが、身体レベルで難しい状態になっている、ということです。 


だからこそ、統合を「考え方」や「捉え方」だけで進めようとすると、どこかで止まります。 


必要なのは、思考をさらに洗練させることではなく、身体ごと、その位置に移ること。 


では、その「位置が変わる」とき、私たちの中では何が起きているのでしょうか。 

次の記事で、もう少し具体的に見ていきましょう。

Core Field Coaching

すでに在る、揺るがない場所から生きる 非二元領域に触れながら、心身の安定と存在の土台を育てるコーチング

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