「わからなさ」にとどまるとき、内側の熟成がはじまる
「どこに向かいたいのかわからなくなってきた」
「でもこのままも苦しい気がする」
「これ以上何をしたらいいのかわからない」
こうした「わからない」という感覚は、私たちをとても落ち着かない気持ちにさせます。
停滞に思えるし、この状態を早く理解したい。
早く整理して、次に進める形にしたい。
だから多くの場合、それは”避けるべきもの”だし、一般的なコーチングでは”解決すべき問題”として扱われます。
なぜなら、この「わからなさ」は、私たちを想像以上に苦しめるから。
停滞感。閉塞感。心身が分離したような感覚。
なんとなくしんどいし、エネルギーが湧いてこない感覚に焦りを感じたりもします。
けれど私自身ふり返ってみて思います。
この「わからなさ」が訪れるとき、実際には内側で、すでに大きな変化が起きているということ。
それは、人生をより豊かにするような、とても大きな変化であるということ。
それは、このわからなさが、これまで自分だと思っていたもの、たとえば思考や感情、 あるいは役割やアイデンティティが、 少し距離をもって見え始めている証拠だからです。
それはつまり、「同一化」がゆるみ、自分自身だと認識してきたものを対象として認識できる場所に移りつつある状態。
同一化を離れ、次の主体が定まるまで。
私たちには一定の時間が必要です。
わからなさは、この移行の途中にある空白。
その不確かさとして「わからなさ」は現れます。
この空白が、私たちを心許ない気持ちにさせます。
なぜなら内側の再編成が起きているから。
これまでの枠組みが通用せず、起きていることの説明もつきません。
そしてこのプロセスは、 思考のスピードでは進みません。
私たちは答えを急ぎたくなります。
何が起きているのか。
どうすればいいのか。
どこに向かえばいいのか。
そして、空白を行動で埋め、停滞の原因を特定しようとし、起きていることに意味付けをしたくなります。
でもこのときとても大切なことは
「わからないものをわからないままにしておく」という新しい選択肢。
わからなさを自分の身体に置いておくことをゆるしてみること。
このやわらかさが、同じ場所をグルグルとしていまう閉塞感から抜け出すひとつの光となります。
まだ言語化されていない変化を、 既存の意味づけで固定してしまうと、同じ場所から抜け出すことができません。
「わからなさ」にとどまるというのは、 とても難しいものです。
私たちのいる社会は、問題解決を求め、結論を求めるため、「わからないままでいること」は不安や無力感を刺激されることもあります。
でも心が、身体が、そう感じているのであれば、それを信頼してみる、というのも、ひとつの選択かもしれません。
内側で起きている変化を信頼してみる。
”自然な動き”を信頼してみる。
このとき、外から見れば何も進んでいないように見えても、内側では心身の熟成が進みます。
そしてこの状態を少しずつ扱えるようになったとき、「今ここにいていい」という感覚がふと生まれ、それはやがて別の理解や行動として現れてきます。
そのプロセスを支えるのは、私たちの身体です。
思考がまだ追いつかないときでも、 身体はすでに「いまここ」に触れ続けています。
呼吸にはリズムがあり、 足裏は地面にしっかりと着き、手に触れるものの感触を感じる。
こうしたシンプルな知覚は、私たちひとりひとりに最初からある”主体”を徐々に思い出させてくれます。
もし身体にうまくアクセスできないと感じても、 それもまた自然なこと。
私たちは生き延びるため、”ちゃんと”生きるため、長いあいだ思考に依存してきました。
思考過多で生きてきた分、たくさんの余地があります。
「わからなさ」は、停滞でも、行き止まりでも、欠如でもありません。
むしろ、意味がまだ形を持っていない、とても豊かな人生の踊り場。
急いで結論に向かわなくても大丈夫。
「わからないまま」にいられる余白の中で、 次の主体は、すでに育ち始めています。
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