繊細さは、適応できない理由ではなく “役割を脱いでも自分であるための知性”かもしれない
私には、人の感情や、場の空気を強く受け取る傾向がある。
人の感情が言葉にされなくても伝わってきたり
場の空気を読もうと思ってなくても読み過ぎたり
刺激で疲れやすかったり、人混みで消耗することも少なくない。
こうした反応は、自分ではあまり自覚していなかったけど、HSPという言葉に出会った時は、あまりに当てはまることが多くて、とても救われた気持ちになった。
自分を責め続けてきた人にとって、 その視点は本当に大切なものだと思う。
私自身も、 その概念に助けられた一人で、自分の居場所ができた気分になったことを覚えている。
でもこの言葉が浸透するにつれて、SNS上で「私はHSPだから~~できなくてもしょうがない」といった言葉を見かけることが多くなったとき、
“繊細さを言い訳にしたくない” とも強く思っていた。
HSP、繊細さん、という概念に助けられた私が次にしたことは、それを「克服」することだった。
弱くないふりをして、普通であるように振る舞った。
私は社会に適応できる人間ですよ、ちゃんと強い人間なんです、と証明したかった。
人から見たらそれがうまくいっていたかはわからないけど、繊細だから、という理由で仕事を狭めることはしなかった。
そのおかげで機会が広がり、ご縁も広がった。
「なんだ、ちゃんとやれるじゃん」
そう思える場面が増えるにつれて、私の中には少しずつ、「できる自分」が育っていった。
きっとその頃から、自分の中に自尊心みたいなものが芽生え出したと思う。
自尊心は、けっこうな大人になるまで、あまり感じることができなかった感情だ。
だからこそ、私はちゃんと強い人間だということを証明したい、と思った。
そうこうするうちに、自分のなかにおそらくは「できる自分」という仮面を加えていたのだと思う。
NOを言わず、弱音を吐かず、休みも厭わず働く私に、自分の価値を見出そうとしていた。
でもその一方で、日々変動する刺激に消耗し、人の感情に飲まれ、神経は揺れ続ける。
気がついたときには、身体は本当に疲れていた。
こうした揺らぎの後は、 「やっぱり私はHSPなんだ」 という理解へ戻りたくもなった。
でも同時に、 そのラベルを握ることで、 どこか自分の可能性を閉じてしまうこともわかっている。
だから私は長い間、
「普通になろうとすること」 と、
「繊細な自分として生きること」 の間で揺れていたのだと思う。
でも今、少しづつ見え始めたのは、
繊細さとは、
社会適応における免罪符なのではなく、
身体を通して世界を読む知性 なのかもしれない、
ということだ。
そして、この“繊細さ”は、下降統合のプロセスの中で、大きな助けにもなっていた。
下降統合とは、意識の変容によって一度“外れた”自己を、もう一度この身体と現実の中へ降ろしていくプロセスのこと。
「私は役割ではない」
「思考が自己ではない」
「外側の評価は自己ではない」
そんな気づきが起きたあと、 人は一時的に自由になる。
でも、その感覚を「悟った私」として握りしめてしまうと、人はそこに新たな自我を作り始めてしまう。
大切なのは、そこから、 “その気づきをこの身体でどう生きるのか” という段階を丁寧に推し進めること。
私はこの下降統合の過程で、 身体の違和感を読む力に、 何度も助けられた。
無理をしている時。
“わかっている私” を演じている時。
「正しい側」に立とうとしている時。
本当は怖れているのに、 強く見せようとしている時。
身体はいつも、
呼吸が浅くなったり、
胸が詰まったり、
お腹が固まったり、
思考より先に反応していた。
そこに生命が閉じるような動きがあったことに、私は長いこと気づかずにいた。
一方、役割や防御が少し外れて “ただ在る” に戻れたとき、 身体は静かに緩む。
この微細な身体の変化は、外側に意識を向けていたときは、気づくことはできなかった。
でも、まぎれもなく、幼い頃から何度も繰り返されてきた、私の生命の動きだった。
私が「繊細さ」と感じていたものは、 単なる弱さではなかったのだと思う。
それは、
役割やラベルで自己を保てなくなった時、
なお“本来の自己”との接続を失わないための、
身体の知性だった。
そして統合とは、単に「受け入れること」でも、「癒されること」でもない。
頭で理解したことが、
神経に通り、
呼吸に通り、
人との距離感に通り、
日常の反応にまで降りてくること。
“知っている” が、 身体の在り方そのものへ変わっていくこと。
だから統合が深まると、人は少しずつ、「何者かになって自己を保つ」必要が減っていく。
役割に固持しなくても、壊れない自分。
正しさで自分を保たなくても、なお在れる自分。
すると最後に残るのは、 とても静かな身体感覚だ。
今、自分自身とその身体感覚に、以前よりもずっと深い繋がりを感じられるようになった。
それは、自分自身への信頼を育むと同時に、世界への信頼も開いてくれている。
繊細さとは。
それは、私たちに”居場所”をくれた言葉というだけでなく、
ましてや社会に適応できない理由や、可能性を閉じてしまう言葉なのでもなく。
役割を脱いでもなお、 自分を見失わないためのBeingに私たちを導く、生命の感受性だったのかもしれない。
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