観察と「観察しようとする思考」の微細な質の違い
自己理解が進み、内省が自然に行われるようになると、やがて自分の内側を「観察する」感覚が育ってきます。
「観察することが大切」
そう聞いて、自分の内側を丁寧に紐解いてきた方も多いかもしれません。
たとえば、
「今、不安があるな」
「これは過去の体験からくる反応だな」
「今ちょっと感情に飲み込まれているな」
そうやって、落ち着いて自分を見ている感覚。
一見すると、とても静かで、 整った状態のように感じられます。
でもそこに、実はとても繊細な「質」の違いがあります。
それは、 「観察している」のか、
それとも 「観察しようとしている思考」の中にいるのか、
という違いです。
私たちは、「観察しよう」とするとき、そこにはわずかな方向が生まれます。
・正しく捉えたい
・できれば落ち着きたい
・できれば変わりたい
といった正しさに向かう方向です。
これはコーチングや自己啓発を学び、実践している人ほど起こりやすい状態かもしれません。
本来の観察は、そことの距離を保ち、「起きていることを起きているままにしておく」ことをいいます。
けれど「観察しよう」とする動きは、距離を保っているようで、どこかで触れ続けています。
自分を俯瞰している。
冷静に見ている。
巻き込まれていない。
そのように感じられても、高度に発達してきた自我パーツが、まるでセルフのように振る舞いながら「観察」をしている場合があるのです。
これは、私たちの自我による、コントロールの延長にある働き、
「セルフのふりをした自我(観察自己)」の働きによるものです。
このとき、内側では まだどこかで「どうにかしよう」とする動きが残っています。
そう、「正しさ」に向かって。
この状態は、とても自然に起こります。
むしろ、これまで自分を守ってきた働きが、より繊細な形で現れているとも言えます。
・不安に飲み込まれないよう、距離を取ろうとする。
・反応に巻き込まれるのではなく、 それを扱おうとする。
それ自体は、間違いではありません。
ただ、 この位置にいる限り、 自我パーツが主体の観察となり、そこに緊張が伴うことが避けられず、
完全にそのままにしておくことが難しくなります。
どこかで整えようとしたり、 意味づけしようとしたりする動きが、止むことがありません。
そうして、落ち着いているようでいて、どこか緊張が抜けきらない状態が続きます。
一方で「観察」は、何かをしようとする前に、すでに起きているものです。
そこには、良い/悪いの判断も、変えようとする意図もありません。
ただ、今ここに起きていることが、そのまま現れている状態です。
これまで私たちは、自分を乱す感情や思考を、”そこにあってはいけないもの”として扱うことに慣れてきました。
しかし、どんな思考も感情も、本来のあなたを形作る大切な一部です。
その感覚で自分の内側に触れられたとき、自然な「観察」を許容できる意識が芽生え始めます。
そして重要なのは、観察は「やるものではない」ということ。
観察しようとした瞬間、そこにはすでに思考の介入が始まっています。
だから、 観察をうまくやろうとしなくていい。
もし今、「ちゃんと観察しよう」としている自分がいるなら、その自分も含めて、そのままにしておくことができます。
「観察しようとしているな」
「整えようとしているな」
その働きそのものが、対象として現れてくるとき、少しだけ位置が変わります。
セルフは、 何かをしようとする場所ではありません。
観察しようとすることも、整えようとすることも、すべてがそのまま現れている場所です。
「セルフのふりをした観察自己」も、高度に発達しながら、あなたを守ってきてくれた大切な一部。
それを排除しようとしなくなったとき、観察は “しようとするもの”ではなく、自然に起きているものとして現れてきます。
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