高度に発達した自我は、セルフのふりをする
ある時期まで、私は「観察している自分」に、強い信頼を置いていました。
・感情に巻き込まれず、
・出来事に過剰反応せず、
・少し引いたところから全体を見ることができる。
そんな自分は、思考や感情に巻き込まれてしまう、それまでの自分とは違う。
私は、自分の人生をコントロールできている。
そんな感覚でいました。
当時の私にとって、それは必要な力でした。
関係性も、選択も、それによってずいぶん安定したと思います。
けれどあるとき、思ってもみない出来事が起こりました。
ある日突然、前触れもなく、身体がいうことを聞かなくなってしまったのです。
たいていのことにはうまく対処できるようになっていたのに。
人生を操縦しているつもりでいたのに。
負荷がかかっていたとは言え、自分の身体ひとつもコントロールできないなんて。
私はこの出来事に、とてもショックを受けました。
同時に、自分への信頼も、大きく損ねました。
しかし、こうした突然のできごとは、自分のコントロールの範囲外で、十分起こりうることです。
たとえば、自分や大切な人の病気、思わぬ不幸。自然災害。
何が起きるか、どんな苦労をするか、その結末はどうなるか。
人生で起こるのは、コントロールできることばかりではありません。
そのたびに、自分に矢印を向け、
「これは自分が未熟だからだ」
「自分に足りない部分があるからだ」と、
自分を裁いていては、心の底から安心することは一生できないだろう、と思いました。
ではどうしたらいいのか。
私たちは、コントロールできない現実に、振り回されるしかないのでしょうか。
◆高度に発達した「観察自我」
ここで一つ、見落とされやすいことがあります。
それは、「観察できている自分」もまた、完全に自由な存在ではない、ということです。
私たちの自我は、外的な出来事に対処するためだけでなく、内側の揺れや不安から自分を守るためにも、精緻に発達していきます。
その結果、ある段階にくると、自我は“未熟な反応”としてではなく、
「気づいている自分」
「俯瞰している自分」
「手放している自分」
として現れるようになります。
つまり高度に発達した自我は、セルフのように振る舞い始めるのです。
これまで幾度となく自分を見つめ、自己理解が深い人ほど、この傾向は顕著になります。
セルフにいるはずなのに、「今ここ」に安住できない。
未来のために走り続けなければならない感覚が、どこか拭えない。
◆
それはとても静かで、一見すると「整っている状態」の中にある違和感です。
うまく言葉にするなら、 「静かだけど、どこか固い」
そんな感覚でした。
そのときの私は、
・落ち着いていて
・俯瞰できていて
・理解も進んでいる
でも同時に、身体はどこかゆるんではいけない緊張を漂わせ、胸の奥はひらかない。
高度に発達した自我は、 とても精巧です。
未熟な形で現れることはほとんどなく、 むしろ
・気づいている
・手放している
・俯瞰している
・在ることに委ねている
といった、 いわゆる「目覚めの言葉」をまとって現れます。
だからこそ、それは見破りにくい。
けれどその本質は、「これ以上深く感じたら壊れる」という判断から生まれた、防衛でもあります。
つまりこれは、未熟さではなく、 むしろ“優秀すぎる守り”です。
私の中にいたそれも、 決して悪意があったわけではありません。
むしろ逆で、 「これ以上、深く感じたら壊れる」 そう判断した、とても優秀な防衛でした。
今振り返ると、 それはずっと前から存在していたのだと思います。
ただ、自己理解を深め、思考や感情との同一化が外れ、自分の中心が少しずつ移動するにつれて、そうした自我が巧妙に作られていたと思います。
そして厄介なことに、これは思考では見分けがつきません。
なぜなら、思考そのものが、その自我の中に含まれているからです。
セルフを、思考で捉えることはできない。
ここで違いを教えてくれるのが、身体です。
自我の中にいるときの身体は、
・静かだけど、わずかに緊張している
・整っているけど、どこか閉じている
・安全ではあるが、あたたかくはない
一方で、セルフが前景化すると、
・ゆるむ
・ひらく
・流れる
・理由なく涙が出る
・慈愛が湧く
そこには「正しさ」ではなく、 ただ通っていく感覚があります。
この身体感覚なしに、 その違いを見抜くことは難しい。
身体が最後まで握っている防衛は、生存システムと結びついています。
だからこそ、それは壊すべきものではありません。
壊すのではなく、抱きしめる。
排除するのではなく、許容する。
その存在に気づき、 あたたかなまなざしを向けられたとき、身体とともに、統合が起こります。
そしてそのとき、 不可逆な「位置の変容」が起きていきます。
もし今、
・もう整っている気がする
・十分に俯瞰できている
それなのに、今ここにゆるむことができない、どこか向かわなければならない感覚があるなら、その静けさの中にある、 ほんのわずかな「固さ」に触れてみてください。
それは間違いではなく、 ただ、とてもよくできた守りが、そこにあるだけです。
否定せず、排除せず、 ただ、その質感に気づく。
そこからしか、先には進めません。
0コメント