投影が消えるとき、世界の見え方はどう変わるのか
以前の私は、「現実は内側の投影である」という見方を採用していました。
起きている出来事はすべて、自分の内側が映し出されたもの。
だから外側を変えたければ、内側を見ればいい。
これは、主体性を取り戻すまでの私には、とても有効な考え方でした。
うまくいかないことがあるとき、人が悪い、環境が悪い、と自分の外側に原因を探そうとばかりしていた時は、自分を変える必要があるとは気づいていなかったからです。
実際、外側のできごとに揺れる自分の”内側”は、自分の持つ、さまざまなビリーフや反応のパターンに気づかせてくれます。
投影を見る目を持つことで、徐々に内側を扱う力も育ちます。
でも私は、あるときから、外の世界を「自分の内側の投影」として捉える必要がなくなっていきました。
「安心」を生きられるようになったころ、気がつけばその見え方が静かに変わっていったのです。
というよりも、その見方自体が自然と外れていく、という方が近いかもしれません。
外側に”意味”を探しにいく動き自体が、どこかで止むからです。
統合が進み、自分を防衛する必要がなくなってくると、内側と外側を同時に信頼できるようになります。
すると、ある日、
起きていることは、ただ起きている、
という、ただシンプルな構造が、すとんと腑に落ちる瞬間が訪れます。
起きていることは、ただ起きている。
それ以上でも、それ以下でもない。
投影とは
投影とは、自分の受け入れられない感情や思考のクセなどを他の人に映し出す、人間の原始的な反応のこと。
私たちは、日常生活においてごく自然に他人に何かを投影し、それを相手の問題だと思っては、さまざま感情を揺らしています。
出来事に意味を与えたり、 「これは自分の何が映し出されているのか」と解釈しにいく動きは、とても自然なこと。
しかし、それらが静かに止むとき、自分の中の”現実を屈折させるなにか”(自我)がそっと後退をします。
すると、自分がまるで鏡になったように、できごとがそのまま通っていく感覚が生まれます。
「通す」という感覚
たとえば、目の前に不機嫌な人がいたとします。
そして、そのイライラをこちらに向けてきたとします。
このとき、その人の不機嫌さに「私がなにかした?」と責任を感じることもなければ、それに傷つく必要も、怒る必要もありません。
ただ、不快さが身体を通っていく。
それだけで終わる。
このとき起きているのは、「理解する」でも「処理する」でもなく、 ただ通っていく、という現象が起きる、ということです。
境界線が立ち上がる
実は、「投影」で世界を見るときは、実は境界線があいまいになりがちです。
どこまでが自分の責任で、どこからが他者の領域なのか。
すべてが「自分の内側の反映」に見えてしまうからです。
けれど、「投影」という前提が外れると、境界線を引こうとしなくても、自然に定まるようになります。
これは、「境界線を引こうとする努力」とは逆で、 身体と神経系がぴたりと一致することにより、そのまま識別される、という感覚に近いものです。
起きていることが起きているまま、そのまま見える。
そうすると、 どこまでが自分の作用で、どこからが他者の領域か、それは判断ではなく、認識として立ち上がってきます。
投影が消えると、世界との関係が変わる
「投影」で世界を見ているとき、 私たちは常に「意味づけ」と「コントロール」の中にいます。
でもやがてそれが外れたとき、
・出来事はただ起きる
・感情はただ流れる
・自分はただそれを通す
という、とてもシンプルな関係に戻っていきます。
そしてその中で、
・自分の責任は引き受ける
・他者の責任は他者に返す
という、ごく自然な在り方が、そっと立ち上がります。
安心を生きるとは
安心を生きるというのは、 何も起きない穏やかな状態になることではありません。
そうではなく、何が起きても、それをそのまま通せること。
揺れても戻れる、自分の中心があること。
そして、自分と他者の境界が曖昧にならず、必要な責任だけを引き受けられること。
その状態にあるとき、世界はもはや「解釈すべきもの」ではなく、ただ関わりの中で自然に流れていくものに、静かに変わっていきます。
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