「ゆるむ許可」が降りたとき、人は“すでに在る”に気づく
ある時期まで、私はずっと「たどり着こう」としていました。
もっと整えば。
もっと理解できれば。
もっと変われれば。
その先に、なにかすごいことを成し遂げる”最高の自分”がいる、と思っていました。
実際、たくさんの自己理解を経て、自分と、世界への理解は増えていきました。
できることも増え、見える世界も広がり、幸せを感じる瞬間も広がっていきました。
それでも、どこかに残る感覚がありました。
幸せを感じても、それはなにかそれに値する出来事があった時に限られる。
その体験をするためには、努力し続けなければならない。
時には歯をくいしばって。
時には涙をのみながら。
こうした体験が美しく尊いものであるときも、もちろんありました。
でもずっと付きまとっていたのは、
まだ足りない、まだどこか、たどり着いていない、という自己の不一致感。
その違和感は、長い間消えることがなかったのです。
でも、今だからわかることがあります。
それは、あのときの私は「ゆるめない構造」の中にいました。
ゆるんではいけない
止まってはいけない
気を抜いたら崩れてしまう。
そうした前提のもとで、生きていた、という事実。
でもそれは意思ではなく、私自身の”生きる力”、防衛本能でした。
ゆるめないのではなく、ゆるめない状態でなければ、成り立たないと感じていた。
だから、どれだけ理解しても、整えても、どこかに力が入り続けていたのです。
「ゆるむ」というのは、技術ではありません。
がんばらないようにがんばることでもない。
そもそも、ゆるもうとしてゆるめるものではない。
許可が降りたときに、はじめて起きる現象です。
なぜなら、神経が「まだ安全ではない」と感じている状態で、ゆるむことは“危険”だから。
だから人は、 手放そうとするほど、握りしめます。
ゆるもうとするほど、力みます。
それは間違っているのではなく、ただそうするしかなかった、でも確かな生命の力でもあります。
では、その許可が降りたとき、何が起きるのか。
それは、何かを得る感覚とは少し違うかもしれません。
むしろ逆で、
”何かを変えよう変えようとしなくても大丈夫だった、ということに気づく”。
足りなかったわけではなかった、
欠けていたわけでもなかった、
ただ生命が、身体が、「足りない前提」で生きていただけだった。
こんなふうにこれまで当たり前だった前提が、静かにほどける変化。
それはとても静かですが、同時にとても深い変化です。
「すでに在る」というのは、 どこかに到達した状態ではありません。
特別な体験が伴う場合もありますが、多くのそれはStateにとどまり、過ぎていってしまいます。
でもそれが身体・神経系含め統合され、Stageとして定着した時。
身体を置く世界の前提が、静かに反転します。
変わらなければならないものがある世界から、すでに起きているものの中にいる世界へ。
手に入れなければならない現実から、すでに在ることに気づいていく現実へ。
がんばらなければ成り立たない自分から、ゆるんでも崩れない場所へ。
とはいえ、日常が劇的に変わるわけではありません。
境界線を越えられれば腹も立つし、それで人とぶつかることもある。
世界は、相変わらず動き続ける。
でも、ひとつだけ違うのは、それをコントロールしなくてもいい位置にいること。
他人を、世界を変えなくてもいいし、整えるべき自分もありません。
起きることが起きて、その瞬間の重なりで人生は彩られる。
行動は消えず、関わりは心地よさの分だけ、広がります。
ただ、その起点が変わるだけです。
「ゆるむ許可」は、出そうとして出るものではありません。
けれど、もうがんばれない。もう支えきれない。そうした地点で、ふと触れることがある。
あるいは、 安心に触れたときに、静かにほどけることもあります。
「ゆるむ許可」とは、何かを手放すことではなく、握り続けなくても大丈夫だった、と気づくこと。
ゆるんだら崩れると思っていた世界は、そもそも、ゆるんでも崩れない場所の上に成り立っていたのです。
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